• 生(いき)の松原頌徳碑(しょうとくひ)

 

  • 除幕式典:平成15年10月26日


<挨拶をされる管長猊下>

十月二十六日(日)、教祖御聖地《生の松原》(福岡県福岡市西区生の松原三丁目)で頌徳碑の序幕式典の法要が杉崎法涌管長猊下をご導師に営まれました。
 参列の宣教師とご信徒は、開教九十周年記念行事として催された『岡山・九州巡拝の旅』の一行。前日の二十五日に百八十名の団体が名古屋を発ち、岡山の最上稲荷教総本山を参拝ののち、福岡市内で一泊して式典に臨みました。
 御聖地は福岡市郊外の丘陵の中腹に建てられており、ふり返ると福岡湾に浮かぶ能古島(のこのしま)を間近に捉え、湾岸に連なる福岡タワーなどの高層ビルが一望できる景観の地にあります。
 会場が手狭なため式典を一度に行うことができず二回に分けられ、一回目の式典は正午過ぎに開始されました。杉崎管長猊下により除幕の綱が引かれると白い布が除かれ、『教祖御聖地』と刻まれた黒御影石の石碑が現れました。このあと読経が営まれ、途中、管長猊下ご焼香のあと、宣教師とご信徒が順次焼香台の前に並び、教祖様の御遺徳を偲びました。
 読経を終え、管長猊下が挨拶に立たれました。はるばる福岡の地に足を運ばれたことに感謝のお言葉を述べられ、七十数年前に教祖様がなされた偉業をお話くださいました。教祖様はハンセン病患者の療養所再建を懇請されるや名古屋・福岡間を幾度も往復され、完成後は患者と寝食ばかりか入浴も共にされています。当時としては成し難い行いが今に伝えられず、やがて消えゆくのを惜しみ、石に刻んで永く後世に伝えるため頌徳碑を建立いたしました。
 式典を締めくくって木村法胤先生の音頭で一同が乾杯いたしました。
 二回目の式典は午後一時半より始まりました。再び管長猊下をご導師に読経が営まれたあと、御聖地建立にあたられた山田石商代表取締役社長・山田貞氏に管長猊下より感謝状が渡されました。
 管長猊下のご挨拶のあと、杉崎法瑞先生の音頭で一同が乾杯し、式典はすべて終了。一行は次の目的地へ向け旅立たれました。


<除幕の瞬間>


<式典に参列される御信徒>


<御聖地からの眺望>

  • 「頌徳の辞」全文

大乗教教祖杉山辰子(すぎやまたつこ)先生は一筋に自行化他(じぎょうけた)の菩薩行(ぼさつぎょう)に生きられた方です。慶応四年、木曽川の要衝として栄えた美濃国笠松(現岐阜県笠松町)の名主の家に生を享け、長じてより、家業の不振に胸を痛められ、家運挽回の方途を求めて法華経の教えと巡り会うことを得ました。幾星霜を重ね、つねに柔和なる笑みを絶やさず毅然たる意志を貫かれて修行研鑽(しゅぎょうけんさん)に励んで独自の境地を開かれ、大正三年秋、名古屋に大乗教の前身となる仏教感化救済会(ぶっきょうかんかきゅうさいかい)を設立、世の人々を救うため布教を開始いたしました。発足当初より杉山先生は病者に救いの手をさしのべることに心血を注がれ、弟子の村上斎(むらかみいつき)医師の協力を得て、難病の治療には医薬の投与以外に精神療法を併用すべきと確信、厳しく差別されていたハンセン病患者を救済すべく名古屋市内に病舎を建て、さらには東京、御殿場など各地へ赴き施療に努められました。

 昭和二年、杉山先生を福岡県会議員青木新五郎氏の名代として田中元治氏が訪れ、生の松原療養所の再建依頼と布教宣布(ふきょうせんぷ)の土地提供を申し出られました。杉山先生はこれまでの経験を活かして真の療養所を作るべく、あわせて精神療法の基盤となる法華経の教えを広めるため福岡支部の建設を決意されました。仏道とは日々徳を積む道なりとのお考え通り、以来名古屋・福岡間を足繁く行き来し、旅装を解くいとまもなくみずから壁塗りや大工の手伝いを行い周囲に積徳の範を示されました。昭和四年四月に療養所の完成をみると、三十六名のハンセン病患者と寝食を共にされ、入浴の際には患者の背中を流されるばかりか血と膿の浮かぶ湯に喜んでお入りになりました。

 杉山先生が無上道(むじょうどう)に旅立たれて七十年余を経た今日、その徳行を知る人は稀となりました。尊い御事績を永く後世に伝えるためここに頌徳碑を建立する次第です。

平成十五年十月吉日
大乗教管長杉崎法涌敬白

 

  • 教祖御在世当時の生の松原療養所

『大乗教教団史 70年の歩み』より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 教祖杉山辰子先生のハンセン病患者救済活動

以下『大乗教教団史 70年の歩み』から抜粋:

癩は今日ではハンセン氏病と、病原菌発見者の名を冠して呼ばれるようになり、完全治癒が可能となって、社会復帰ができるようになったが、戦前までは”天刑病”といわれ、”業病”といわれ恐れられた。

 骨が腐り、肉が腐り、手足を失い、顔までくずれて行く癩病は、肉親と別れ、故郷を捨てて自分の名前を捨てて、一生人々から嫌われて生きねばならぬ。余りにも悲惨なこの病気に苦しむ人々を救いたいと念願された教祖は、物質的薬餌療法に加えて、内面的精神療法を行うことによって治療する方法を考えられ、その実施の機会を熱望された。

 大正5年、東京巣鴨の癩治療専門の東洋病院が経営難に陥った時、教祖は約1年間にわたって物質的、精神的に援助をつづけ、病院を復活された。また静岡県御殿場の神山復生病院(こうやまふくせいびょういん)に出張して精神療法を施し、大いにその治療効果をあげられた。この病院はフランス人ドルワール・ド・レゼー氏が経営されるキリスト教系(カトリック)の病院であったため、仏教の真義に基づく懺悔滅罪(さんげ・めつざい)、功徳(くどく)生活の実施に対し反対が起こり、中断の止むなきに到った。

 <中略>

 昭和2年、福岡県会議員青木新五郎氏の要請によって(青木氏は名代として田中元治氏を名古屋に派遣した)、福岡生(いき)の松原の癩治療所の患者36名の治療をされることになった。また青木氏から提供された土地に、福岡支部の建物を建設、名古屋港から材木を送り、福岡港から荷揚げして、教祖が先頭に立たれて、多くの若い奉仕者と共に荷車でその材木を運ばれた。

 また悪因消滅(あくいんしょうめつ)の功徳を積むためと、癩治療の一環として、福岡市及びその周辺の小学校において、高山、小原、木田将軍など当時の将官達を招いて精神講話の会を開き、人々の教化にも尽くされた。しかし一方、多くの妨害に遭遇され、苦境に立たされた教祖は、生の松原海岸の俎岩(まないたいわ)の上で絶望苦悩されたこともあったが、癩治療に大いに成果をあげ、人々から熱い感謝を受けられた。

 大正年間から昭和の初期にかけて、信仰と医学の両面をもって、絶望的難病の救済に当たられたのは特筆すべきである。

 

  • 現在の生の松原の様子

生の松原療養所が建っていた場所には、現在、西福岡病院がある。

現在の「生田(いくた)池」

この池は教祖様の時代、1町3反5畝あった水田へのかんがい用溜池で、水田及び周囲の畑地の野菜、西瓜、味瓜はご信徒の方々が徳を積むといって、お題目を真剣に唱えながら、馬をつかったりして耕作されたとのことである。
 そして、その収穫物は療養所の人々や村の人々、町の人々に施された。特に西瓜は美味で『杉山西瓜』と呼ばれたとのことである。
(「大乗」No.98(1985)参照)

現在の生の松原海岸

  • 参考情報

高松宮記念 ハンセン病資料館ホームページ(クリック)

内容・・・ハンセン病に関する基本情報/日本におけるハンセン病治療の歴史や功労者などの情報.

『増補 日本らい史』(山本俊一著、東京大学出版会、1997)

内容・・・日本におけるらい病患者救済の歴史/法制史/らい予防法制定以降の詳細な研究.