大乗教開教90周年記念

シベリア日本人戦没者慰霊の旅


 <リストビヤンカ村日本人墓地にて献花をされる杉崎法涌管長猊下>

 平成15年7月18日より4泊5日の日程で、杉崎法涌(すぎさき・ほうよう)管長猊下を団長とする21名の大乗教慰霊団がシベリアを訪問し、イルクーツク市、バイカル湖畔リストビヤンカ村及びハバロフスク市において慰霊法要を厳修いたしました。
 旧ソ連による抑留政策によってシベリアに送られ、過酷な強制労働によって亡くなられた日本人は約6万人とも言われており、把握されているだけでも332ヶ所の日本人墓地が広大なシベリアの大地に散らばっています。犠牲者の多くは、ロシア人墓地の片隅に集められた、朽ちかけた墓石の下に眠っておられます。荒れた墓地の現状に大乗教慰霊団参加者はしばし言葉を失いながらも、精一杯の祈りを凍土に眠る若者の御霊に捧げました。

 


  

 

 

”シベリア日本人戦没者慰霊の旅に参加して”(大乗教古知野教会長中村法行、「大乗信報」平成15年8月10日号所収)

 シベリア日本人戦没者慰霊の旅に参加下さいました杉崎法涌管長猊下以下全員がつつがなく帰国いたしましたことを報告します。

 途中、イルクーツクからハバロフスク行きの旅客機が18時間遅れたこと以外はすべて快調な旅でした。仏天の加護、教祖のご守護はもとより信者の皆様が無事を祈念してくださいました賜物と深く感謝します。

 寒いというイメージのあるシベリア。秋にしゃべった言葉が凍ってしまって春になると聞こえてくる。6月の終わりまで雪が降る。8月の終わりには初雪が降る。

 今年は恵まれて30度ほどの暑さだったのです。しかし冬は零下37度ともなり、あの広いバイカル湖が全面凍ってしまうということです。それほど厳しい気象の極寒の大地なのです。

 今日も暮れゆく
 異国の丘に
 友よつらかろ
 切なかろ
 夢も寒かろ
 冷たかろ

 終戦となった昭和20年(1945年)8月より3年乃至5年の長きにわたり捕虜となり異国の丘にて重労働。はじめのうち「ジャリユーヴォの協定」で黒パン300グラムでどうやら生きていた。が、この極寒のシベリアの悪条件が重なり、56万2千人の将兵と民間人1万1千人が、なかには病となり栄養失調となり多数の人が死に至ったその数6万5千人。一説には抑留された人は100万人を越し、40万人の人が亡くなったと報じられています。悲しむべき「シベリア抑留」です。

 その後、だんだんと食料の配給もわるくなり、コッペパン1斤8枚切りが16名の食べ物。小さな塩サケ一切れ、2粒の豆の入った大根スープ、身はほとんどなく塩味。また部隊では飯盒(はんごう)のふた一杯の粟(あわ)が1日分の食料。それを塩で味付け煮るのです。ただそれだけです。雑草を取ってきて食べたのです。みんなではげまし、なぐさめ、我慢の連続です。

帰る日も来る
春が来る

抑留中に亡くなった人は帰る日がこなかったのです。

倒れちゃならない
祖国の土に
たどりつくまで
その日まで

抑留中に倒れて死んでしまったのです。祖国から5千キロも離れたシベリアで。 


<リストビヤンカ村日本人墓地の名も無き墓石>

 さぞかし、帰りたかったでしょう。祖国日本へ。家族に会いたかったでしょう、親、兄弟に。話したかったでしょう、妻や子に。寒かったでしょう、零下40度では。つらかったでしょう、たとえようがない。食べたかったでしょう、あのおふくろの味噌汁が、煮ころがしが、郷土料理のかずかず、うどんやそば、おすし、何度も夢をごらんになったことか。

 こんなところにつれてこられて、ろくに食べず働かされて病となり死んで埋められて、ああ、お慰めの言葉を知りません。合掌、唱題。

 この墓の前でなったことを喜べと言えますか。戦争は人類を不幸にするのです。平和でなくてはなりません。なにがなんでも平和でなくてはなりませんと教えて頂きました。

 抑留中どんな仕事をなさったか。

 山での木材の伐採、製材工場でさらに運搬、事業所・役所・工場・家屋の建築、橋梁作業、市電の建設、鉄道の建設、土木、採石、炭坑、山野の開墾、農業。体力の限界までノルマを課せられ、食料につられて働きすぎて死に至ったのです。


<イルクーツク市内に今も残る日本人抑留者が建設した建物>

 


 

旅行日程

第1日目:平成15年7月19日

 イルクーツク、マラトボ墓地の一角にある日本人墓地にて法要。線香、ローソク、供物。読経。方便品で管長猊下みずから花輪を捧ぐ。
 <献花をされる管長猊下>

 法要後、「異国の丘」を合唱。そして、406柱の墓地に向かって唱題行。感極まって涙、涙、また涙。
  <朽ちかけた墓石に眠る犠牲者に合掌>


 <累々と続く抑留者の墓石>


<墓標には犠牲者の名前が日本語とロシア語で表記されている>

 遺骨の発掘作業をされている厚生労働省の方々に感謝(厚生労働省社会・援護局業務課 課長補佐 野本正氏が現地にて指揮)。つつしんで壱墓穴を拝す。

<遺骨発掘作業の様子>

深さ2メートル50。幅1メートル30。長さ3メートルほど。ご遺骨に合掌。50余年も経っているのにきれいにはっきりと尊い姿。合掌唱題す。イルクーツクだけで81ヶ所の日本人墓地があると聞かされる。

 

 次にバイカル湖畔リストビヤンカに向かう。高さ50メートルほどの小高い丘への坂道を右に左に登りつめたところに日本人墓地がございました。

<リストビヤンカ村日本人墓地へ>

 高い墓標、4メートルほどもありましょうか。「永遠平和」、そして60名の名前が刻まれたプレートが下に落ちていました。幾歳月を感じます。ここは360名の抑留者が作業なさって、そのうち60名が亡くなられたのです。

<亡くなられた方々のお名前が刻まれたプレート>
 
 法要。同じく管長猊下が花輪を捧げられ、回向。「異国の丘」の合唱。
<一心に読経をする御信徒>
 

<異国の丘の合唱>
 
 写真を撮り、感激しながら降りてきたら、一頭の黒い牛が飼い主のおばさんから離れて墓標のあたりにかけあがるのを見て、「牛までも泣きにきたのかこの丘に」とつぶやく。

<飼い主からはぐれた牛>


<丘からリストビヤンカ村を望む>

 

第2日目:平成15年7月20日

 バイカル湖畔のニコライ教会。バイカル湖博物館。バイカル湖畔遊覧、一時間。木造建築博物館。キーロフ広場。シベリア鉄道記念碑。中央広場。
 


 <バイカル湖畔ニコライ教会>

 


 <バイカル湖博物館>

 


 <上・バイカル湖遊覧>

<右・木造建築博物館>

 

第3日目:平成15年7月21日

 大聖堂。ズナメンスキー修道院。キーロフ広場。中央市場見学。


 <大聖堂・イルクーツク市内>


 <ズナメンスキー修道院・イルクーツク市内>


<中央市場・イルクーツク市内>

 イルクーツク市は人口60万人。日本の金沢と姉妹都市。江戸時代に大黒屋光太夫がこの地に滞在しました。航空機でモスクワまで5時間20分。ハバロフスクまで3時間25分。


 <イルクーツクの街並>


 <イルクーツクの街並>

 

第4日目:平成15年7月22日

 イルクーツク空港、午前1時25分、ハバロフスク行き旅客機のフライト・タイム。たんに18時間17分遅れたというだけではないが、ロシアではじっと待っているだけと聞く。この便で行けばハバロフスクで朝食、日本人墓地で法要ができる。到着後、レーニン広場で写真を撮り、日本人墓地に向かう。
 


 <ハバロフスク市内レーニン広場に立つ杉崎法涌管長猊下>

 墓地につくと一人のロシア人が墓の前の花壇の草花に水をかけていた。広い墓地の敷地のほぼ中央なのか、高い樹木が並び、そのあいだ、あいだに墓地があるという状態。


<ハバロフスク市内日本人墓地>


 <ハバロフスク市内日本人墓地>


それにしても間に合ってよかった。
 法要、読経、花輪を捧げる。回向、そして「異国の丘」の合唱。横断幕を広げて写真。すぐに空港に向かう。


<ハバロフスク市内日本人墓地 慰霊法要の様子>


 <ハバロフスク市内日本人墓地 集合写真>


<夏草に覆われた日本人の墓石. 題目を唱えながら一柱ずつ拝む大乗教宣教師>

 11時5分発、ダリアビア航空309便にて新潟に向かう。約2時間で新潟に着く。感染予防の体温測定。入国。
 出国するとき気がつかなかったが、帰ってみると日本の国はなんときれいなんだと、美しき日本をありがたく思う。
 雨にもあわず、病気になった人もなく、怒る人もなく、まったく守られた旅というべきでしょう。
 杉崎団長をはじめ各先生に感謝。またお世話くださったJTB横地しのぶさん。ハバロフスクのユーリさん、リーナさん、イルクーツクのイリ−ナ・バシェンコさんにありがとうと申します。

合掌