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旅行日程
第1日目:平成15年7月19日
イルクーツク、マラトボ墓地の一角にある日本人墓地にて法要。線香、ローソク、供物。読経。方便品で管長猊下みずから花輪を捧ぐ。
<献花をされる管長猊下>
法要後、「異国の丘」を合唱。そして、406柱の墓地に向かって唱題行。感極まって涙、涙、また涙。
<朽ちかけた墓石に眠る犠牲者に合掌>

<累々と続く抑留者の墓石>

<墓標には犠牲者の名前が日本語とロシア語で表記されている>
遺骨の発掘作業をされている厚生労働省の方々に感謝(厚生労働省社会・援護局業務課 課長補佐
野本正氏が現地にて指揮)。つつしんで壱墓穴を拝す。

<遺骨発掘作業の様子>
深さ2メートル50。幅1メートル30。長さ3メートルほど。ご遺骨に合掌。50余年も経っているのにきれいにはっきりと尊い姿。合掌唱題す。イルクーツクだけで81ヶ所の日本人墓地があると聞かされる。
次にバイカル湖畔リストビヤンカに向かう。高さ50メートルほどの小高い丘への坂道を右に左に登りつめたところに日本人墓地がございました。

<リストビヤンカ村日本人墓地へ>
高い墓標、4メートルほどもありましょうか。「永遠平和」、そして60名の名前が刻まれたプレートが下に落ちていました。幾歳月を感じます。ここは360名の抑留者が作業なさって、そのうち60名が亡くなられたのです。

<亡くなられた方々のお名前が刻まれたプレート>
法要。同じく管長猊下が花輪を捧げられ、回向。「異国の丘」の合唱。
<一心に読経をする御信徒>

<異国の丘の合唱>
写真を撮り、感激しながら降りてきたら、一頭の黒い牛が飼い主のおばさんから離れて墓標のあたりにかけあがるのを見て、「牛までも泣きにきたのかこの丘に」とつぶやく。

<飼い主からはぐれた牛>

<丘からリストビヤンカ村を望む>
第2日目:平成15年7月20日
バイカル湖畔のニコライ教会。バイカル湖博物館。バイカル湖畔遊覧、一時間。木造建築博物館。キーロフ広場。シベリア鉄道記念碑。中央広場。
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<バイカル湖畔ニコライ教会>
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<バイカル湖博物館>
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<上・バイカル湖遊覧>
<右・木造建築博物館>
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第3日目:平成15年7月21日
大聖堂。ズナメンスキー修道院。キーロフ広場。中央市場見学。
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<大聖堂・イルクーツク市内>
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<ズナメンスキー修道院・イルクーツク市内>
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<中央市場・イルクーツク市内>
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イルクーツク市は人口60万人。日本の金沢と姉妹都市。江戸時代に大黒屋光太夫がこの地に滞在しました。航空機でモスクワまで5時間20分。ハバロフスクまで3時間25分。
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<イルクーツクの街並>
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<イルクーツクの街並>
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第4日目:平成15年7月22日
イルクーツク空港、午前1時25分、ハバロフスク行き旅客機のフライト・タイム。たんに18時間17分遅れたというだけではないが、ロシアではじっと待っているだけと聞く。この便で行けばハバロフスクで朝食、日本人墓地で法要ができる。到着後、レーニン広場で写真を撮り、日本人墓地に向かう。
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<ハバロフスク市内レーニン広場に立つ杉崎法涌管長猊下>
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墓地につくと一人のロシア人が墓の前の花壇の草花に水をかけていた。広い墓地の敷地のほぼ中央なのか、高い樹木が並び、そのあいだ、あいだに墓地があるという状態。
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<ハバロフスク市内日本人墓地>
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<ハバロフスク市内日本人墓地>
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それにしても間に合ってよかった。
法要、読経、花輪を捧げる。回向、そして「異国の丘」の合唱。横断幕を広げて写真。すぐに空港に向かう。
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<ハバロフスク市内日本人墓地 慰霊法要の様子>
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<ハバロフスク市内日本人墓地 集合写真>
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<夏草に覆われた日本人の墓石.
題目を唱えながら一柱ずつ拝む大乗教宣教師>
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11時5分発、ダリアビア航空309便にて新潟に向かう。約2時間で新潟に着く。感染予防の体温測定。入国。
出国するとき気がつかなかったが、帰ってみると日本の国はなんときれいなんだと、美しき日本をありがたく思う。
雨にもあわず、病気になった人もなく、怒る人もなく、まったく守られた旅というべきでしょう。
杉崎団長をはじめ各先生に感謝。またお世話くださったJTB横地しのぶさん。ハバロフスクのユーリさん、リーナさん、イルクーツクのイリ−ナ・バシェンコさんにありがとうと申します。
合掌
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