「宝塔」第236号
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彼岸の心

 若い頃、北アルプスを登山した。はじめ麓(ろく)を歩いている時は、元気に足取りも軽く仲間と楽しく話しをしながら歩いている。一時間二時間と歩くうちに、段々と口数も少なくなり、足は重くなり、汗は出て、息は荒くなる。リュックは肩に食い込み、登山靴の爪先は痛くなる。前後の人との距離も離れて姿が見えなくなる。一服の時間も長くなりもう歩けないと思う。でも皆は頑張っていると思い、気を入れ直して歩を進める。

 遠く離れた仲間から声を掛けられ励まされる。又少し歩を進める。もう駄目だと思う。もう来年はやめだぞ。心臓は早鐘を打つ。体は汗でビッショリだ。山道の岩に足を取られる。バランスを取りながら歩くので足は疲れる。息は苦しい。楽しい登山が嫌になる。そのうち美しい視界が見えてくる。段々高度が高くなる。時々涼しい風が頬をなでる。気持ちがいい。やっぱり登山はいいなあと思う。

 さあ頑張れ、又、気を入れ直して思い足を進める。皆のいる頂上に辿(たど)り着く。やれやれ着いたぞ。腰を下ろし大きく息をつく。頑張ったぞ。広い下界が眼前に広がり何とも言えない嬉(うれ)しい気分だ。尾根づたいの縦走(じゅうそう)が素晴らしい。遠くの山々が美しい。ヤーッホー、ヤーッホーと叫ぶ。山はいいなあ。苦しかったことも忘れて山の醍醐味(だいごみ)を楽しむ。

 若き日の思い出である。

 人生は山登りに例えられる。苦しい道のりがあって、喜びも大きい。この苦しみは人それぞれだ。小さな苦しみであっても人によっては大きく感じている。

 すぐ苦しみから挫折してしまう人もある。普通では耐えられそうもない困難も乗り越えてしまう人もある。

 身体障害者の人がパラリンピックなどに出場し、多くの観衆を感動させる時、すごいなあと思う。二本の手、二本の足があってもあんな芸当は出来ないのにあの迫力は何だと思う。目が見えなくてもマラソンに挑戦する人。麻痺(まひ)の体で絵を描く人。手のない人が口に筆をくわえて素晴らしい文字を書くなどは神業としか思えない。

 同じ人間でありながら一時の苦しみや不都合から落ち込んだり、やけになる人もある。いや、そんな人の方が多いのではないか。

 今、日本中不況で地獄の生活を送っている人が多いという。ローンの返済が出来ない人。負債を抱えて夜も眠れない人。果ては自殺に追い込まれるなどニュースで聞く。まさに大洪水に溺(おぼ)れている人のようだ。

 お彼岸の彼岸とは彼の岸と書く。それは此の岸から向こうの岸に辿り着く、苦しみを越えて目標に向かうことの励みを教えている。人間誰もが人生の荒波を経験しながら生きていく。これは人間の宿命である。

 徳川家康の言葉に人生は重き荷を背負った旅のようだと言われるように、荷物の種類が違うだけだ。

 小さな荷物でも重く感じる人、大きな荷物でも苦にしない人。人はそれぞれだ。

 体を鍛えていない人には小さな荷物も持ちきれないように、心の弱い人には小さな困難も大きな苦痛である。

 昔からの金言に、

艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉(たま)にする

とある。今の日本は豊かで平和である。命懸けの問題が少ない。コソボ、アルバニアなど戦火に怯(おび)え飢餓(きが)に苦しんでいる人々の姿をニュースで見るとき日本は有り難いと思う。

 戦前戦中の人々はこれ以上の苦しみを経験した。だから困難に強い。しかし、現代の中年以下は皆軟弱である。すぐ苦しみから逃れようとする。苦しみを知らないから今の幸せが分からない。真の喜びが分からない。感謝が無い。

 死ぬほどの病気を経験した人は、生きていることが素晴らしいと思う。命の尊さをよく知っている。

 現代の若者は自殺を簡単にする。生きている有り難さが分かっていない。

 死んだつもりになればという言葉があるが、それ程切羽詰ったことがないと困難に弱い。

 私の従姉妹(いとこ)が婚期が遅れて嘆いていた事があった。親を恨み、姉妹を恨み、自分の不幸を嘆いた。

 そこで彼女に優しく、

 「器量も人並みで、健康で頭脳にも恵まれ、手も足も揃っていて何が不幸なの」

 「世の中には手のない人、足のない人、目の見えない人が一杯いるけれど、皆頑張って生きているのよ」

 「不足言ったらバチが当たるよ」

と諭(さと)しました。

 私は思いも掛けない眼病で手術を受けました。心配ないか怖くないかと皆に言われました。私はそんな不安はありませんでした。私には仏様がついておられる。必ず守られている。この安心が自信をもたせ、心静かに手術台に向かったのでした。お蔭様で熱も上がらず少しの痛みも無く知らぬ間に手術は終わり順調に回復しました。でも眼病前のようにはいきません。だいぶ視力が落ちまして不都合です。でも見えます。外出も出来ます。ワープロも打てます。それが有り難いのです。

 不安や不足は自分の運命を縮めます。悲観的になっても良くありません。

 スポーツ選手も記録に挑戦しています。サッカーもバレーボールも血の滲(にじ)むような特訓を受け、泣きながら頑張ります。目標を目指して進むところに人生の生き甲斐があるのです。私たちの人生から目標を無くしたら生きている喜びはありません。

 彼岸とは人生の目標なのです。その為にはかなりの困難を克服しなくてはなりません。困難こそ生きる証(あかし)なのです。困難あってこそ喜びも大きいのです。

 今の時代は豊かで便利な暮らしですから、困難が少ないのです。だから困難に負ける人が多いと思います。

 困難に出会って人間は成長します。

 成長の暁には、思いやりのこころ、他人に優しい心が芽生えます。何事にも誠意をもって立ち向かえます。困難に強くなりゆとり有る精神が生まれます。努力と信念によって人格が向上し多くの人から信望が集まります。

 二宮尊徳先生は年少の頃、金次郎といって、田舎の大変貧しい家に生まれ苦労しました。

 昼は働きに出て勉強は夜です。今なら部屋に蛍光灯の照明がありますが当時はランプかローソクしか有りません。そのランプの油を買う金も無い程貧乏だったのですが、金次郎は貧乏に負けず、兄弟の面倒を見ながら学問に励み、やがて農村の発展の為、治水工事を計画して多くの人の為に働きました。

 野口英世先生は小児の時、いろり端で大火傷をして手の手術をしたことで、成長して医学の素晴らしさを知り人命救助を志し、医学の勉強に励み、やがてアメリカ、アフリカに渡り、恵まれない村落の人々の為に医療活動をしながら細菌学や黄熱病などを研究し博士となり医学界に貢献しました。

 この様な伝記を読みますと必ず人間の艱難(かんなん)に触れるのであります。幸せは苦労なくしては生まれないと言われます。仏教のシンボルである蓮の華はまさに幸福は苦しみなくして生じないことを教えているのです。

 蓮は泥田の中から美しい華を咲かせます。

 苦しみの人生を泥田に例えています。その泥に染まらず蓮は咲くので幸福のシンボル・仏教のシンボルにされました。

苦しみて後に楽は来るなれど 苦労知らずに楽は来たらず

人の世に苦しい事は多けれど 負けずに進め法のともがら

一度しかない人生を素晴らしく生きたいですね。それが彼岸に向かうこころです。

合掌

宝塔第236号(平成11年9月1日発行)