「宝塔」第270号
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 ならぬもの

 一、かじってならぬものは親のすね
 一、言ってならぬものは人の悪口
 一、通してならぬものは無理
 一、踏んでならぬものは道ならぬ道
 一、塗ってならぬものは人の顔に泥
 一、捨ててならぬものは義理と礼儀
 一、笑ってならぬものは人の失敗
 一、忘れてならぬものは受けた恩
 一、怠けてならぬものは精進
 一、逃がしてならぬものは好機
 一、くさしてならぬものは人の話
 一、怒ってならぬものは自分の噂
 一、曲げてならぬものはつむじ
 一、勝ってならぬものは理屈
 一、乗ってならぬものは調子よい話
 一、粗末にしてならぬものは親と老人
 一、立ててならぬものは腹
 一、こぼしてならぬものは愚痴
 一、出してならぬものは我欲
 一、ついてはならぬものは嘘
 一、誇ってならぬものは知識と名声
 一、おしんでならぬものは慈悲
 一、濁ってならぬものは誠
 一、やぶってならぬものは堪忍
 一、残してならぬものは罪
 一、失ってならぬものは徳

  錆(さ)びた鋏(はさみ)

 よく切れる鋏があった。よく切れるのでついつい何でも切って、ついにはプラスチックの下敷きの様なものまで切っているうちに、原稿用紙のような紙がまともに切れなくなってしまった。切り口がザツになって用をなさなくなった。いわゆる切れが悪いのである。そのうちにこのハサミは使用されなくなり、今ではついに錆びてホコリをかぶって引き出しの隅に転がっている。
 人間にも、これとよく似た人がいるのではないだろうか。よく間に合うからと言って、何でもかんでも、所かまわず相手かまわず、口を出して噛みついているうちに誰からも相手にされなくなって行く――慢心かお節介の性か、いづれにしても、こうなったらおしまいである。ご用心を・・・。
 本当に間に合う人は、ふだんは黙っていても、イザと言う時に口を開いてスパッと切り放つ強さ(切れ味の良さ)を備えている。

   波紋(はもん)

 人間の生活に現れる種々の出来事のすべてに因縁果報が存在している。これは何時か、何処かで、誰かに与えた思いが返って来たのである。
 それは池の真ん中に石を投げ込むと波紋が起きる。そ
の波紋はやがて途中で消えてしまうように見える。だが肉眼では見えなくなった波紋を科学の目で見ると、必ず池の岸に当たって、再び石の落下点まで帰って来ると言われているのと同じである。
 我々も前世から今世の今日までに自分は忘れていても
蒔いた種は正直で、必ず縁という時を得て、果という芽生えがあって、それが報いと成って返って来ているのだから、怒る事も恨む事も無く、そのままを素直に頂き、努力する者が運命を開く徳を得ていくのである。
 心の貧しい者は、気に入らぬ事に、怒りや愚痴の石を運命の池に投げ込んで、不幸の報いを受けている。
 心豊かな者は、何事も善意に受け取って、運命の池に波紋を起こさないから常に安穏である。

    心のとげ

 イバラやカラタチの木の様なトゲの有る木には良い鳥が住まないと言われている様に、心にトゲのある人には、
  
   喜びがない
   感謝がない
   堪忍がない
   和合がない

 
 だが幸福には成りたい願いはある。

    仏陀曰(いわ)く

 愚痴と・怒りと・貪りのトゲを取れ、
 必ず、汝の家庭にも、
 幸福の鳥・平和の鳥・喜びの鳥が、
 慈悲と、誠と、堪忍の気に集まり、
 この世の楽園に成るであろう――と。

 貴女はどうですか?
 サラリーマンのご主人をもつある奥さんが言われた。
 「先生、主人はどうして時計の振り子の様に、毎日一分
の違いもなく帰宅するのでしょうね、ただいまと言う声を聞くと、もう帰って来たのかと、うんざりします。男ならパチンコの一つもやって来ればよいのに、帰って来ると、テーブルの前で何にもしないで、もさっと座っておられると本当に、厭(いや)になりますよ」
 と愚痴をこぼされた。
 この話を聞いていた一人の奥さんが、
 「まあ奥さん、幸せですね、お宅のご主人は毎日決まって帰ってお見えになるのですか。そうですか、幸せですね。私の主人なんか毎日午前様で月に一度も家族そろって食事をしたことがありませんよ」
 と泣かれた。これを聞かれた先にご主人を時計の振り子の様だと言われた奥さんが、曰く「まあ奥さん、お宅のご主人は毎日午前様ですか、いいですね、気楽ですわね」と羨望(せんぼう)の声を出すと、奥さんこそお幸せですね、うらやましいわ、とお互いに相手の生活環境をうらやましがっていた。
 人間とはそんなもので、お互いに自分にないものを求めて愚痴をこぼし、現在を不足に生きている場合が多いようである。
 両のご婦人にも言えることは、帰りが早かろうと遅かろうと、帰って来て下さるご主人のいることを喜びなさい。ご主人が健在であればこそ言えることであって、誠に贅沢(ぜいたく)な話である。まさに人間は上を見ても下を見てもきりの無いものである。
 あるご婦人が座談会の折り、「先生お願いです。主人に何とか説法して下さい」と言う。その話は、ご主人が毎日毎日酒を飲んでは食べ物に文句を言うので主婦業が嫌になったと泣かれるのである。
 これを聞いておられた初対面のある奥さんが、曰く、
 「奥さん泣いて涙が出るだけ幸せですね。奥さんの作られた食事を、文句を言いながら食べて下さるだけでも幸せですよ、私は泣いて涙が出るどころか、もう泣く力もありません」
 と言われ、訳をお聞きしますと、この方のご主人は内臓は別として、身体のあらゆる機能の働きが麻痺(まひ)して、手足は勿論(もちろん)のこと首もアゴも動かすことが出来ないだけでなく、意志の表現を目ですることも出来ない病気だと言うのです。したがって、今では寝たきりで食事も奥さんがスプーンでノドの奥まで入れて流し込むだけで、味の美味(おい)しい不味(まず)いも、あれがほしいそれはいらない、という感情も無く、ただ心臓が動いているだけの植物人間になっている、と言われました。そのご主人の両親も今は亡く、夫をおいて別れる事も出来ず、せめて子供の一人にでも恵まれておれば、その子の成長が生活の励みにも成るだろうが、その子供にも恵まれない現在では、自ら死を夫と共に選ぶことの業の深さを教えられれば、死ぬことも出来ず、泣いて泣いて泣きつくして今では涙も出ません、と言われる。このご婦人は、喜怒哀楽の無いご主人に尽くすことによって、自らの罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)と徳を積むことに生きておられるのである。
 その生きる姿には、すでに愚痴も不足もありません。

                    合掌

宝塔第270号(平成14年7月1日発行)