「宝塔」第287号
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 徳と悟りと喜びをもって

 完全舗装された道路なら、古い軽自動車でも振動は苦にならないが、悪い道を走ると上下左右に揺れて内蔵が引っ繰り返るような衝撃を受ける時もあります。
 悪い道でも、大きな高級車であれば、その振動は軽いリズムのように身体に伝わってくるものです。
 人生も平和で無難な時は、徳と不徳の差も善人と悪人の差も余りハッキリ感じません。しかし難事に遭った時はその差がハッキリ見えてきます。
 仏様は世の人々の姿をご覧になり「衆苦充満(しゅくじゅうまん)して甚だ怖畏(ふい)すべし」と申され、大慈悲をもって仏法をお説きになっています。
 不徳な者は事にふれて貧弱な人間性を現してガタガタと騒ぎますが、教えを聞いて徳を積んだ人は、徳と悟りと喜びのリズムによって、悪路も軽く受け流して常に安楽な人生を進むことが出来るのであります。
 世の中は、持ちつ持たれつと言って、お互いに尽くし合い、励まし合い、喜び合って生きていくところであります。
 人という字を見ても、もたれる棒と、支える棒がその意味をよく現しています。
 もたれる棒は、支える棒によって安定を保ち、支える棒はもたれる棒によってその力を発揮しているとも言えます。
 頼る人は、支えてくれる人があってこそ、今日があると感謝しなければなりません。
 頼りにされて相手を支えなければならない人は、私を頼る人があってこそ生き甲斐があり、徳が積めると喜ばなければなりません。
 支える立場を長年続けていると何時しか欲に心を迷わして、愚痴と怒りに明け暮れてしまう人もいます。
 平素はこれといって目立たない人でも、一度気に入らないことでも起きたら、自分の意見に固執して譲らない。その為には怒り散らして恥じることもなく、むしろ怒ることが当然だと思っている人が多いのです。
 自分は一番苦労している。この思い込みの強い人ほど何かにつけて他の者が悪く見えて、自分が良く見えてくるのです。だから怒れてくるのです。
 自分が悪いと気がつけば腹の立つようなことはありません。お互いに自分が良いと思いながら、日常思うようにならないのは何故でしょうか。本当に自分が良く出来た人間であれば、すべてが思うようになって当然であるはずです。
 自分の身体を自分で持ち上げることが出来ないように自分の価値は自分で決めるものではなく、他から評価されるのが本物でしょう。
 聖徳太子が、
 「人もし教えなければ禽獣(きんじゅう)に等しい」とお説きになったように、仏様の教えを得て悟ることが出来ない人は一生懸命努力していると豪語しながら、その実は求める幸福は足下から逃げ去ってしまっていることに気がつかなければなりません。

 あるご婦人がご相談にみえました。
 「実は私は男の子一人と女の子四人の母親ですが、息子のことで相談に来ました。
 長男は大学を卒業して某会社に勤めているのですが、出勤の支度中突然頭が重いとか、気持ちが悪いなどと言い出しまして会社を休んでしまいました。
 新入社員によくある疲れくらいに思っていましたが、今日で一週間部屋に閉じこもって寝てばかりいるのです。医者に診察をお願いしますと、首を傾げて『精密検査をしてみなければ何とも言うことは出来ません』と言われて途方に暮れてしまいました。言葉をかけても返事もしてくれません。なぜこんなことになったのでしょうか、治す方法はあるのでしょうか」
 
 母親として切々たるご相談でした。
 これを聞いた私は、ご主人や親に対する奥さんの心と行いを尋ねました。
 「お尋ね致しますが、今日までご主人を不足に思い続けてこられたのではありませんか。今、ご立派な息子さんが病気で心配をなさってみえますが、仏様の教えを聞きますと、病気は心の現れと言われます。
 奥さん、この世の中は思い通りにならないことが多いです、その思い通りにならないことを何とか思い通りにしようと自分の考えを相手に押しつけて来たのではないでしょうか。もしそうであれば、男性に徳を失った結果だと悟らなければなりません。
 親と子の関係は、前の世にあって奥さんが、この子に育ててもらったから、今世は親という立場になって育てて返すべき約束のもとに今日があるのです。
 子供の成長する姿を見て、自分が親に育ててもらった過去を思い出して両親に手を合わせて拝むことが大乗教の教えです。
 我が子をいつまでも子供扱いにして、何歳になっても親の権力で思う通りにしようとして、間に合わぬ息子で困ったとか、甲斐性がない子だ男らしくしなさいとか言って責め、息子さんに対して常に不足が多かったのではありませんか。
 我が子に喜びがないばかりか、欠点の追求と不足や怒りの中に育った子供は、社会に出ても他人はその子の長所を認めてはくれません。親でさえ認めなかった不足の固まりは、社会に役立たない人間として人生を送らなければならないのです。我が子に対して善い因縁をつくることも親のつとめであります。
 奥さんのご家庭は真の和合が出来ていましたか。まず夫婦・親子・兄弟が相和すことが大切です。仏様の教えでは、子供に困るのは親を困らせた罪とも言われています。
 あなたのお舅さん(義父)に対してお世話が出来ましたか」
 「ハイ、実は私のお舅さんは交通事故に逢い、二三日で亡くなりました」
 「そうですか、それで分かりました。義父であればこそ嫁として立派な世話をするのが道ですが、突然の事故死では充分にお世話をすることも出来ず逝ってしまわれたのですね。心からの親孝行が出来ていなかったのです。
 だから、我が子が頼り無い状態となり、やがては大切な一人息子にも世話になれない不安に責められることになったのです。それから主人に喜んでもらえる妻としての働きも無かったのではないですか。
 今日この運命の訪れる元は、義父に対する忘恩と主人への不満が我が子への不足となって、このような結果を生じたと悟らなければなりません。
 自分は誰よりも苦労して来たと思っていらっしゃるでしょうが、これは高慢の現れであって、古人の言葉に、「めんどり歌えば家は滅びる」とありますように、男の人に対して、あなたの心の位置が高すぎたのです。
 まず今は亡き義父に、過去の不出来な自分を心より詫びることです。昔から追善供養という言葉があります。字の如く、個人を追って善根を積むことであります。
 人生は過去の功罪によって運命が決定します。今日からでも遅くないと腹を決め、教えを実行して下さい」
 この奥さんは、過去の罪業を洗い清める正しい信仰に立ち上がる懺悔(さんげ)と喜びの涙を流して精進をされました。
 私たちは今日の運命に対してどんなに不遇であろうと悲しかろうと、これは過去の下手な物の考え方や行いでそうなったのであって、これに小言や不足を言っていたのでは、いつまで経っても幸福はやって来ません。
 問題は今日訪れた運命を喜びにとるか、不足にとるかによるのです。完全な人は一人もありません。尊い仏教の教えによって誰でも幸福になれると知って精進できる信仰生活こそ最上の人生と喜ぶものであります。
 人生は人を生かすと書いてあるように、常に相手の立場を考えて決して迷惑をかけないようにして、言葉一つでも喜んでもらえるように努力することです。
                               合掌

宝塔第287号(平成15年12月1日発行)