「宝塔」第297号
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 一人で生まれ一人で死んでいく

 この世に生まれたものは、必ず死ぬ運命にある。元気で毎日を過ごしている人も、今日生まれたばかりの赤ん坊でも一度はこの世を去らなければならない。死は自らの意志とは無関係にやってくる。しかも、生まれた時と同様に一人で死んで行かなければならない。当然、不安がつきまとう。いつ自分は死ななければならないのか。どんな世界が待ち受けているのか。再び生まれ変わる事が出来るのか等、考えだすと限りなく頭に不安が浮かんで仕方がない。いくら考えても解決するはずがないのだから忘れてしまえばよいのだが、歳を増すごとに現実の問題となってくる。時々、自分の若き日の出来事を思い出して懐かしみ、現在の自分と比較して変化した心身、特に衰えた部分を残念な気持ちと諦(あきら)めで、まじまじと観察して落胆し、時代の変遷(へんせん)とそこから生じる苦しみを味わう事がある。諸行無常(しょぎょうむじょう)が作り出す苦しみこそ、人間本来の苦しみと言えるのではなかろうか。自然に逆らおうとしても結局逆らうことが出来ず、生かされるままに生き、刻一刻と死に近づいているのである。文明がどれ程進歩しても人間から『生老病死(しょうろうびょうし)』の四つの苦しみを取り去る事は出来ない。
 
例えば、私の前に余命数カ月と診断されたガン患者がいるとする。現実に何度かそんな場面を経験したが、健康な私にどれだけ病人やその家族の気持ちが理解でき、その不安を取り除いてあげる事が出来るだろうか。結局早く元気になるよう頑張って下さいと勇気づける事ぐらいしか私には出来ないのである。確かに、場合によっては信仰や色々な治療法によって長生き出来る事もあるが、その人の持って生まれた因縁〔寿命(じゅみょう)〕は、口で言うほど簡単に変える事の出来るものではない。すなわち、与えられたものは全て喜んで受け取るしかないようである。たとえそれが老や病や死と言う恐ろしいものであったとしても、最後は仏様や自然に逆らう事は出来ないのである。嬉しい事であろうと悲しい事であろうと、最終的には自然のまま与えられたものを与えられたようにするしかないのであり、その時が来て慌(あわ)てても仕方がない。それより、来るべき死は必ずやって来るのだから、それに備えて現在、何を成すべきかを考えることが大切である。
 
それは、因縁果報(いんねんかほう)から考えて原因のない結果はあり得ないのと同様に、幸福で長生きをしたいのなら、その結果に到る様な因と縁を積み重ねること、種まきをしておくことである。すなわち、従果向因(じゅうかこういん)がそれである。
 
あらゆる悪事を犯して幸せな人生が送れるなら、真面目に汗水流して努力する必要はないのであり、実際悪事を犯した者の末路(まつろ)は惨(みじ)めで、真面目に努力した者はいつか報われる日が来るものである。つまり、日頃から善行をする様に心がけておれば、死に際した時でも必ず納得のいく笑顔を周囲の人々に見せる事が出来ると私は信じている。それに、死ぬ者だけが悲しいのではない事を忘れてはならない。確かに、世の中には死んでくれて助かった、良かったと言われる人も少なくないが、こんな人は例外であり、生きていた価値を感じさせない。それよりも、他人に涙を流して悲しんでもらえる様な生き方をする事、そして残された者の悲しみをも考えてあげられる様な人になることが大切である。
 
では、残された者はどの様に考えたらよいだろうか。先程のガン患者の家族の様な立場であったら、どうすればよいかという事である。愛する者と離別する場合において、死別は人の力ではどうすることも出来ない状況がある。最愛の者を失う時が一度は来ると分かっていても現実になると当事者は迷い悩んでしまうものだ。そうした事は今も昔も同じで、古くから伝わるインドの物語に同種の苦しみを綴(つづ)ったものがあります。
 
 
昔々、インドのコーサラ国にサーヴァッティという名の都があり、そこにキサー・ゴータミーと言う母親がいました。ゴータミーには一人の子供がおり、その子供が歩き始める様になったある日、病気に罹(かか)って寝込んでしまった。ゴータミーは必死になって看病したが、その甲斐もなく死んでしまった。しかし、自分の子供が死んだとどうしても信じられないゴータミーは、我が子を抱いて町中を歩き再び息を吹き返す薬を探して回ったが、そんな薬を見たと言う人は誰一人としていなかった。彼女が途方にくれ悩んでいると、一人の賢者が通りかかり事情を説明すると賢者が、
 
「私自身には分かりませんが、その様な薬を知っている人を存じておりますから、お教えしましょう」と言うので、ゴータミーは喜んで、
 
「その方は、どこに住んでみえてどんな名前の方なんですか」と聞くと、
 
「その人は、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)にみえる釈迦と言う人です。一度尋ねてみなさい」と言われたので彼女は、早速釈迦のもとへ行く事にしたのです。祇園精舎で釈迦に会った彼女は、釈迦(しゃか)に対して、
 
「私の子供は、死んだ様に見えますが私にはどうしても信じる事が出来ません。そこで、息を吹き返す薬はないものかと探しておりましたところ、あなた様の名前を耳にしたので、この通りここに参上した次第です。どうか生き返る薬を教えて下さい」と尋ねると、釈迦は、
 
「あなたの言う生き返る薬とは白色の芥子(けし)のことです。今から町へ行って、それを貰って子供の口の中に入れたなら、きっと生き返ることでしょう。しかし、一つだけ問題があります。それは、どんな家でもよいと言う訳ではなく、今までに一人として死者を出していない家から芥子を貰わなければならないのです」と答えた。
 
ゴータミーは町へ行き一軒づつ、「失礼ですが、死者を出していない家から白い芥子を貰わなければならないのですが、あなたの家から死者を出された事がありますか」と聞いて回ったが、答えはどの家も同じで、
 
「芥子はありますが、死者を出した事もあります」と言う返事ばかりだった。途方にくれたゴータミーは、再び釈迦のもとへ行き、
 
「あなたが言われた通りの白い芥子を探しましたが、どの家も死者を出したことがあり、どこにも見当たりませんでした」と告げると、釈迦は、
 
「当然の事ですよ。死者を出したことのない家がある訳がないのです。この世に生まれて死なない人間なんて一人としていないのです」と答えた。その言葉を聞いた時ゴータミーは思わずドキッとして今までしてきた自分の行動の愚かさに気がついたのであった。その後、彼女は子供の供養を欠かす事はなかったと言う。
 
 
この物語の主人公ゴータミーの気持ちは、誰にでも理解して頂けるだろう。そして、誰もが同じ立場になったら似た様な行動をすると思われる。只、子供が死んでしまった事も事実であり、認めざるを得ない所が非常に苦しくも辛い立場だと思う。しかし、何時までも悲しんでいたからといって本当に息を吹き返す訳もなく、現実を直視する事が最重要だと思う。元来、人間は別々の肉体を持ち別々の精神(心)を持っているのだから、生まれる時も死ぬ時も一致するはずがないのである。
 
また仏法では、生死一体という考え方があります。生を頂いたその時に同時に死が約束されているものなのです。
 
独生独死、一人で生まれたものは、一人で死んで行く。だからこそ、他人と共に生きている今世という時間を大切にし、その間どの様に生きる事が望ましいのか考えて頂きたい。
 
最後に、人間とは所詮、孤独で利己的な生き物であり一度人間界に生まれたなら、他人との関わりを拒絶することは出来ないのである。だから、その人間生活の中でどこまで自分のわがままを抑えて、他人の事を思いやって生きることこそ、自分の人生を豊かにし、喜び多き一生にする秘訣(ひけつ)ではないだろうか。

合 掌

宝塔第297号(平成16年10月1日発行)