「宝塔」第305号
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 人は天地の恵みの中に

 私たちは毎日の日暮らしに追われて、大切な事を忘れているのではないでしょうか。
 大自然の恩恵を受けていないものは一人としていません。一日として生きることも出来ないのです。
 この大地が無ければ、この世に生きるすべてのものはその生命を保つことは出来ません。人が歩くことも、走ることも、家を建ててそこに住むことも、家族が夕食を共にして話し合うことが出来るのもすべて、この大地があるからです。
 またこの地上には、熱帯の地もあれば、極寒の氷に閉ざされた所、大陸の中には乾燥しきった砂漠もあります。その地には、そこに適した草・木・苔が、それぞれの生命を保ち、その中に生物がいるのです。人も動物も植物も、そこに根を下ろして生き、子孫の繁栄を営んでいるのです。
 次に、豊かな水があり、その水が水蒸気となり、雲となって風が起こり、高いところに来て、雨となって降り注ぎ、その水が多くなると沼や湖を作り、やがて川となり大河となって、大海に注ぎ、また雲となって気流にのり、常に自然の中にこの繰り返しをして、大地にある生命を持つものの源をなしています。
 天空には、さんさんと輝く太陽がある。その熱と光は地上にエネルギーを与え、寒暖の地を作り、人も生物も草木もその地に合うように生きているのです。大地があり水があり、太陽があって、その中に風の働きがあって私たちは生き続けることが出来るのです。
 人は生きる為には、水を利用したり、熱を使ってより良い生活を求め努力をしていますが、この大自然の働きが無ければ何一つとして出来ないのです。
 私たちも大自然の中に生まれた一つの生命であることを忘れてはならないのです。
 大地の上に根強く生きる草木も同じことで、その中より、人は生命をつなぐ為に米・麦・根菜類、海に住む魚貝・海藻等を取って生命の源となしているのです。
 これらの地球上のすべての生物もそれぞれの尊い生命を保つ為に生きているのです。決して人間に食される為に生きているのではないのです。
 人がこうしたものの命を取って生きていることを、常に心に留めて、大自然の恵みと他のものの生命の上に今日あることを一時も忘れることは出来ないのです。
 今ではお金さえあれば、どんなものでも買うことが出来る、何でも自由に出来ると思い、現実にそうしているが、本当は人が勝手に生活する為に利用しているのにすぎないのです。
 ある日、市場に買い物に出掛けました。乾物店の前まで来ますと、一人の奥さんが、一串の目刺しを手に取って、これは少し痩せている、色が悪いからと、ポイッと横の方へよけているのを見まして思ったことは、この鰯(いわし)は大海を友と共に泳いでいるところを人間に捕まえられて、ゆでられ、干されて、目に串を通されて、目刺しとなって、この市場の店先に並んでいるのですが、鰯から見れば、色が悪かろうが痩せていようが大変迷惑なことで、それよりも大海の中で自由に泳いでいた方が余程うれしいに違いありません。魚の方から見れば、人間だって、肥えた人痩せた人と色々あるのにと、これ程勝手なことはないと思うでしょう。
 鮭やイカは、一生を卵を産む為に生きているのです。卵を産むと自分の生命は無くなるそうですが、只、子孫を後に残すことだけに一生を終わることを思うと、何か物の哀れさを感じます。それを人が産卵に川を上る魚を産む前に取って食べたり、その卵を取って珍味として食べてしまうのです。
 鶏は、今では小さな檻の中で、前だけ向いて動くことも出来ず、睡眠時間も減らされ、卵を産む為だけに餌を食べさせられ、卵が産めなくなると、食肉として加工業者に渡されます。こんな酷いことでよいのでしょうか。
 私たちが毎日の食膳で、こうしたものの命のお蔭と感謝の気持ちで食べなければ、魚や野菜や鶏その他の生物から怨まれても仕方ありません。他の生命の犠牲の基に人の生命が守られ長らえていることを深く知って、私たち自身の生命の尊さを知ることが大切である。
 先日も新聞で、今どうしてもお金が欲しい為に、簡単に人を殺し、お金を取ったとのこと。他の記事には、お金に行き詰まり、家族四人が自動車に乗ったまま海に飛び込んで心中をしたとのこと。
 前に聞いた話ですが、主人が転勤になって、母と子供と三人で生活をしていましたが、主人からの送金が半額になり、別に女の人が出来たのではと悩んだ挙げ句、母と子が自殺をしました。家族の死を知り、勤め先から飛んで帰った主人は、びっくりしてさめざめと泣かれた。実はそのご主人は、体を悪くして入院をしていたのですが、奥さんや子供さんが心配をするといけないからと知らせなかったのです。この家族には少しばかりの田や畑もあり、今住んでいるのも自分の家とのこと、心に潤いが無く、今日のことだけを考えるところにこの様な悲劇が生まれたのです。
 ある方が腎臓を患い、三ヶ月の入院治療と言うことで入院されました。病院では毎日、殆ど塩分の無い茹(ゆ)でたじゃがいも等が中心で、食も進まないとのことでした。この方は、大体に於いて辛好(からず)きで、食べ物のことになると、よく奥さんに味付けが下手だ、もっと考えて煮物を作れ、本でも読んでよく勉強をしろ、何年同じことをやっているのだと怒っていることの多い人ですから、病院生活は耐えられないものであったのです。
 しかし、病院生活を送るうちに、すべての食べ物にも生命があったということを思い出され、今まで文句ばかり言ってきたから、これは罰が当たったのだと、今日からは一つ一つの食べ物に感謝をして、今後一切の不足を言わないこと、このじゃがいもが私の命の基になるものだからと、それより毎日、食べ物に手を合わせて「有り難うございます、あなたのお蔭で病も良くならして頂き私の命の恩人です」と、三度三度拝まれ頂かれました。
 この方は病気のお蔭で初めて、物の命と自分の命の尊さを知ることが出来たのです。毎日の生活に追われて考えてみることもなかった大切なことを知ったのです。
 この方は、この時より、どんなものでも、今日あるのは、こうした色々の命を頂き、これが私の命を守り繋ぐ恩人なりと、人にも家族にも話をされ、健康に生かさせて頂くことの尊さを知り、喜びと潤いのある暮らしをされておられます。
 本当に食べ物が無ければ、私たちすべての人の生命を護ることが出来ません。
 今では魚は養殖でどんどん育てられ、南海の果てからも持ち込まれた海老や鰻(うなぎ)が国内で食べられるようになり作物は新しく改良されて、一年中どこでも新しい物が頂けるようになったり、遠く海外の物も手に入るようになりました。これはひとえに大自然の恵みの中から生まれてくるのです。
 科学がどんなに発達しても、太陽や地球を作ることは出来ないでしょうし、何も無いところから水や空気を作ることも出来ないでしょう。
 私たちは、大自然の恩恵を受けていることを忘れています。
 栄養をどんなに取っても、医学が発達し薬が次から次へと作られても、病は人の体を蝕(むしば)んで行きます。それはこの恩恵を忘れ、ものの生命の上に人が生かされていることを忘れているからです。
 天変地異(てんぺんちい)という言葉がありますが、台風、地震、津波など起こるのは、これを天が怒り、地が吠えるの例えで物の命の怨みを受けているからではないでしょうか。
 先程の腎臓を患われた人のように、自分の心に反省を促し、感謝と命の尊さを知って生きる道を見つけて行くことです。病や災難は、人の道を閉ざすものではなく、人の道を示すものなのです。        

合掌

宝塔第305号(平成17年6月1日発行)