「宝塔」第306号
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 彼岸に至る者は少なく
 此岸にある人びとはただ岸にそいて走るのみ

 人間であれば必ず一度は通らなければならない関所のような所があります。その関所は決して楽しい通過点ではなく、苦しみを感じ悲しみをも伴う。出来ることなら避けて行きたいと誰しもが考えている所です。
 しかし、いくら考えてみたところでそこを通らずには先に進むことが出来ない。苦しくても悲しくても現実に一歩一歩しかも確実に近づきつつある。「死」と名付けられた状態が、やがて自らの身にも襲いかかる事は世の常であり、諸行無常(しょぎょうむじょう)の当然の結果(過程)と言うより他ならないのであります。
 この死と呼ばれる状態は、昔から好むと好まざるに関係なく誰一人として例外を認めず、生じて止まないことは言うまでもありませんが、それに対する人間の恐怖心も一向に治まる気配はないのです。
 江戸時代の高僧で良寛(りょうかん)と言えば、多くの人がその名を耳にし、いくつかの句が頭に思い浮かぶでしょうが、この良寛とて人の子であり着実に忍び寄る断末魔(だんまつま)に耐えかねて、その苦しみにうちひしがれたそうであります。病魔に侵されていた良寛に付き添って看護を続けていた者が修行を積んだ人でもこの様な苦しみを受けるのかと不思議に思い、その旨(むね)を尋ねてみると、その答えは辞世の句となり今日まで伝えられています。
 
 裏を見せ 表を見せて 散るもみじ
 
 人は死ぬ時は、すべてをさらけ出して死んでいくのだと言うことを、もみじの散る様(さま)で例えています。
 この句を読む時、私はいつでも人間の弱さと多面性を感じずにはいられないのです。人間とは決して綺麗事だけでは生きていけず、自分の奥深くにある人間としての性の悲しさの様なものを実感させられるのです。
 そして、こうした苦しみを受けなければならない者は良寛一人だけではなく、我々の一人残らずが経験していかなければなりません。
 
 散る桜 残る桜も 散る桜
 
 今は元気なように見えても、それは人間の目を通して元気であると感じるだけであり、生まれたものは何時かは死ぬもので、早いか遅いかの差があるだけである。
 我々の目や考え方が万能であるなどと思っていたら、それは思い上がり以外の何物でもないのです。しかし、人間は思い上がり、自分の都合でしか、ものを見ないし考えないようであります。
 武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)詩集の中に『死』と言う題名の詩が書き記されています。
 
 
       死
 
 自分が机に向かっていると
 こんなことを囁(ささや)く奴がいる
 「お前は何時までも生きるつもりでいるのだね
 何時までも」
 「いいえ」と自分は言った
 「それでも五十までは生きる心算だろう」
 とそいつは言った
 
 「さあ」と自分は言った
 そして少し不安になった
 「生きられませんか」自分は小声で聞いた
 
 「さあ」とそいつは笑いを帯びて言った
 そしてどこかへ行ってしまった。
 
 私達には明日は見ることが出来ず、今現在しか無く、一時間先のことすら見ることは許されてはおりません。にもかかわらず自分には将来があり、まだ見ぬ未来が待ち続けているような錯覚に陥っているのであります。
 
 江戸時代の狂歌師大田南畝(おおた・なんぽ)が、
 
 いままでは 人のことのみ思いしに
 おれが死ぬとは こいつはたまらん

 
と歌った様に、死について考えない人は誰もいないと思いますが、たいていは自分以外の他人の事としてとらえていたのが、いざ自分の番が来たとなると”たまらん”ものであります。
 良寛和尚の、
 
 災難に遇う時は災難に遇うがよろしき候
         死ぬ時は死ぬがよろしき候

 
 にも教えられるように、苦しい時には、苦しんで死んでいきなさい。どんな死に方でもよいのだ、死は生きた後に与えられるものだ、とも教えられています。
 この世に対する執着から死を自覚出来ずに、何時までも生きていられると思い上がっている我々は、目先に捕らわれて「我」を主張し他人を受け入れず本当の幸福を見ようとしない。それどころか本当の幸福が何であるかということすら知らないまま死期を迎えるのであります。もしも、自らの身にやがて死が訪れることを知れば、思い上がりを捨て、自分の出世の目的は何であるのか、本当の幸福とは何か。今自分が何を成すべきかを探求するはずでありますが、残念なことに大概の人はこれらのことを知る由も無く、我欲に捕らわれ自らの手で自分を欲の奴隷と化しているのであります。
 
 自分が損する事を嫌い、他人が得する事を嫌う。
 自分が得する事を好み、他人が損する事を好む。
 自分自身に腹を立てずに、他人にばかり腹を立てる。
 自分自身を善人の如く思い、他人を悪人にしたてる。
 自分の考えが唯一絶対であり、他人の意見を聞こうと しない。
 
 時には、そんな自分を顧みて反省もしてみるが、すぐに忘れてしまい身勝手な理屈を付け自分を正当化しようとするのです。
 確かに人間は弱い者であり、臆病ではありますが、だからと言って現実を無視することは出来ません。
 死というものは嘘でもなければ遠い将来のことでもなく、意外に近い将来必ず一度は我々全員が体験していかなければならないのです。
 だからこそ、それまでに我々が成すことは何かを考え実行に移す必要があるわけですが、それは色々な表現がなされており、それを簡単に言うと「満足する」と言うことではないかと思います。
 一見容易なことのように思えますが、それは満足出来ることを満足するのであって、今言おうとしている意味とは大きく異なります。満足出来ないこと、満足出来そうもないことを満足することが大切なのです。
 嫌なこと・辛いこと・不平不満の出そうなこと・怒りたくなるようなこと、これらのことに対して満足するのであります。そして、そこから喜びを得ることです。
 足ることを知って喜びを得る、一般的に使われている小欲知足(しょうよくちそく)のことである。
 いくら難しいことでも、この考え方を持って日々の行いに変えて行かなければ、我々がこの世に生まれて来た価値はないのです。そして、その行動は、やがて彼岸(ひがん;悟りの世界)へと通じて行くのです。
 
 彼岸に至る者は少なく、此岸(しがん)にある人びとは 
 ただ岸にそいて走るのみ

 
を、自らが実行してしまっては駄目なのです。此岸は我々の住むこの娑婆世界であり、娑婆世界に執着するあまりに、彼岸に至ることなく右往左往しているうちに死を迎えてはいけません。
 その為に、満足するように心がけるのです。そして、それが彼岸へと通じ、我々の永遠の幸福となって行くのです。

合掌

宝塔第306号(平成17年7月1日発行)