「宝塔」第308号
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 欲を離れるところ すなわち浄土なり

 「この世は、もともと心の現れである。外に迷いががあるのではなく、内なる心の迷いが現れてくるのである」
 「心の欲をもととして、この欲の火に焼かれて、人は苦しむ」
 「心の無知をもととして、罪の闇につつまれて、人は悲しむ」
                           (聖語より)

 偽物の多い世の中である。欺(あざむ)く者も、欺かれる者も欲の迷いがもとである。宗教の中にも人心を迷わせたり、家庭を破壊させる偽物もある。教えのない迷信、真理に外れた教えを説く邪教は、人々の無知や、弱点に付け入って人々の心を迷わせる。そういう宗教は、マルクスの言ったように「宗教は阿片(アヘン)なり」と言われてもしかたがない。
 本当の宗教は、正しい理性の上に立ち、真実の教え〔真理〕を説くものである。
 自由主義の盲点は、人が大勢集まっている中に身を置くと絶対安全だと錯覚することである。迷っている人がいっぱい集まって喜んでいるのは阿片的症状である。
 「みんなで渡れば怖くない」という集団催眠の中で、人は理性を失い、自己を見失う。
 数の論理は民主主義の落とし穴である。数だけが問題にされ内容は無視される。昔の軍隊のように兵は員数であって個性は抑圧される。自己の精神の主体性を失うことは自由を失うことである。
 精神の自由、心の豊かさを与えるのが、本当の宗教である。現在は、物質的な豊かさはあっても、心の豊かさがない。
 心が貧しいために物の尊さを忘れ、物を粗末にする。心が貧しいために人間の尊さを忘れ、思いやりの心を失う。心が貧しいために人を押し退けて利己主義に走る。互いに相手を押し退けようとして争いが起こり、修羅(しゅら)の怨念(おんねん)に燃えて心は黒く濁り、人々は徳を失う。
 人は徳を失えば不幸になる。徳を持つ者は幸福を受ける。徳はみな心より生ずる。心迷えば罪を造り、罪は様々な苦しみ悩みを生む。心悟れば徳を生み、徳は様々な幸福や喜びを現す。
 仏は人々の心を罪の迷いから開放し、徳の世界に導くものである。心迷えば地獄、心悟れば極楽である。
 「画は絵師によって描かれ、境界は心によって作られる」
 またいわく、
 「心は巧みな絵師のごとく種々の五蘊(うん)を作る」
 と。
 画家は我が心のままに画を描きあげていくように、人は我が心のままに自己の世界を作りあげていく。
 欲の深い心は、貪(むさぼ)りと慳(おし)みの構図から餓鬼道(がきどう)の世界をつくりあげる。
 怒りの心は、憎悪と破壊の構図から地獄の世界をつくりあげる。
 愚痴(ぐち)の心は、無明(むみょう)と無自覚の構図から畜生(ちくしょう)の世界をつくりあげる。
 こころこそ 心迷わす こころなれ
 こころに心 心ゆるすな

 江戸時代のこと、旗本の息子で小野浅之進という十八歳の若者がいた。小鳥が好きで大事に可愛がっていたが、ある日のこと、野良猫がその小鳥を食い殺してしまった。若者はカッとなって怒りにまかせ槍を取って猫を突き殺した。猫はギャッと悲鳴をあげ、苦しみのたうって息絶えた。
 若者は気が落ち着いてから「ああ可哀相なことをしてしまった」と後悔した。猫の無残な断末魔の姿が脳裏に浮かんできて消えない。そんなことがあってから夜寝ていると、天井から猫の泣き声が聞こえてきた。気味悪く思っていると、今度は床下から泣き声が聞こえてきた。二夜三夜と続くうちに、自分の腹の中で猫が泣くようになった。彼はとうとう病床に臥し、食も進まず、痩せ衰えていった。
 心配した両親は、仏法の師僧を招いて相談した。師僧は浅之進のところへ行って「この愚か者め、お前は天晴(あっぱ)れ旗本の武士だと思ったのに、畜生などに心を奪われるとは、腰抜けの大馬鹿者である。お前のような奴は死んでしまえ」と大喝した。浅之進はハラハラと落涙した。
 「師僧さま、仰せの通りです。私は不甲斐ない腰抜けです。我ながら情けない。覚悟を決めて潔(いさぎよ)く切腹して果てます。どうか引導をお願いします」
 「宜しい。拙僧が引導を渡してやろう。しかし、武士たる者、猫のためにムザムザと一命を捨てるのは口惜しい。せめて憎い猫に一太刀(ひとたち)加えてから死ぬがよい。お前の腹の中で泣き出したら、猫ののど首と思える所へ刃を突っ込め。仇を討って死ねるぞ」
 夜更けを待って切腹の支度をし、猫の泣き出すのを待ったが、一向に泣かない。夜が明けた。師僧は、
 「浅之進、猫は消えたぞ、お前の心の隙間に忍び込んだが、お前の必死の覚悟で逃げていった。もう来ない。お前の病気は治ったのだ」
 小野浅之進は元通り元気になり、後に家督を継いで立派な武士になった。今どき猫に取りつかれる人はいないだろうが、財や地位に取りつかれ、愛欲や怨み憎しみに取りつかれて、自他を苦しめている人は少なくない。

 妄想自らまとうこと蚕(かいこ)のまゆを作るが如し

 妄想は自己の欲心から起きる。人並み以上の利益を求める欲心が動くと、物事の本当の姿が見えなくなる。
 また、欲心の縁によって、さらに欲の深い者に出会う。天からお金が降ってくるような話にも乗ってしまうことに成りかねない。
 心の眼が欲に覆われてしまうと、正しい判断が出来なくなる。正邪・善悪の分別を失うことにもなる。
 インド神話のシバ神は両眼のほかに、眉間(みけん)の真ん中にもう一つの眼が縦についている。魔女に誘惑されたとき両眼はその誘惑に負けたけれども、第三の眼から光明が輝き出て、魔女は光に打たれて消え去ったという伝説がある。
 正邪・善悪の入り乱れているのがこの世である。何が正しく、何が正しくないのか。何が善で、何が悪かを見る心の眼を持つことが大切である。
 自然界の現象は複雑多岐であるが、科学の力はその因果関係を少しづつ解明している。そのお蔭で物質文明は長足の進歩をした。しかし物質文明は諸刃の剣のようなもので、一方では自然破壊、環境汚染から核兵器に至るまで人間の生存に不安を与えている。
 科学を人間の繁栄に寄与させるのは人間の心である。正しい宗教に基づく優れた精神文明が今日要求されている所以である。アインシュタインは言っている。
 「宗教無き科学は不具であり、科学無き宗教は盲目である」
 と。
 「原因のない結果はない」。これは科学の鉄則である。そして、これはまた仏法の法則であり、人生の道理である。この道理は自明のことでありながら、人は原因を無視して、好きな結果だけを求めて迷うのである。
 迷いのもとは貪欲(とんよく)の心である。貪欲の心が強くなると他を侵してでも利を得ようとする。虚偽(きょぎ)や欺瞞(ぎまん)の悪徳を何とも思わなくなる。貪欲の極端は奪い合いになる。暴力をふるう者、金権に頼る者、その果てには武力が出動してくることになる。
 貪欲の心は恐ろしい修羅の世界を生み出す。人々が愛し合い助け合う心を忘れ、憎しみや怨念を増長する。終には自他共に苦しみの境界を招くことになる。
 「諸々の苦しみの所因はこれ貪欲がもとである」と仏は仰せられている。
 幸福な人生を作り上げるのも、不幸な人生を作るのも所詮は我が心の一念である。私どもは仏の教えに随順して、自他共に幸福になる心の一念を育てて行きたい。

合掌

宝塔第308号(平成17年9月1日発行)