「宝塔」第323号
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 何をつかむか

 「最近の日本人を見ると粗雑(そざつ)な感覚である。昔からそうだったのだろうか」と聞いた外国人がいたそうだ。
 そう問いかけられてもいたしかたない現状である。物や金を追いかけ、物や金に追い回されて生きる事が現在の社会人であり、活気のある充実した人生だと勘違いしている者があまりにも多いからである。そのくせ心は遠くの過去に忘れて来ているのだから始末が悪い。「物過(ものす)ぎたるが故に心及ばず」という。まさにその通りである。
 例えば、ペットを飼うことには目の色変えて使う金銭に糸目をつけない人が、年老いた親の世話は無視している。これで文化人と言うのだからね。人としての道は平気で踏み外しても、自分さえよければ幸福と思い違いも末期の現代人。自分が大切だ、自分が一番可愛いと言いながら、この人達が実は一番自分を粗末にしている事実に気づいていない。年を取ることも、病むことも、いや死ぬことすら忘れて、現状の生活がそのまま二十年、三十年たっても同じ姿で続くと思い込んでいる。実に粗雑な感覚である。
 生きものを可愛がる人の心は暖かいと言われているので、子供にも生きものを飼育させる事は人間性を豊かにするためにも必要な事であると、むしろ奨励されているほどなのに、大人になるとなぜかペットは可愛がっても自分を可愛がり育ててくれた親や、またはお世話になった人達を自分の生活の枠外において振り向こうともしてない。実に悲しい事実がある。
 物や金がすべてだと思い込み、金、金、金と金を追い回して、金さえあれば人生の悩み苦しみは楽に乗り越えることが出来る。ひどい人は苦労なんてものはあり得ないと錯覚して、金を貯めただけで人生を終えて行く。そんな人の方が多いのではなかろうか。
 こんな話がある。インドに「三かく長者」とあだ名される長者がいた。三かくとは三つのものがカケている事である。それは何か。恥をかく、義理をかく、欲をかくであって、この長者はこの三つをカイてまでも金を得て長者になったから「三かく長者」と言う名前がついた。だが巨万の富を築きあげたこの長者も寄る年波となり、何時お迎えが来るかわからない時を知って、ようやく気づいた「財産をいくら築いても、いざと言う時に何の役にも立たない。何一つ持って行けない。みんな置いていかねばならない。間違うと子孫の者たちの財産争いの種になるだけだ。考えてみればつまらない事に生涯を虚しく費やしてきたものだ」と
 三かく長者はせめてもの罪滅ぼしに、後に残った人に自分と同じような愚かなことの繰り返しをさせたくないと願い、息子に自分の葬式の仕方を頼んだ。
 棺桶の両側に穴を開け、手を出してくれと。長者の思いは「これほどに金をかき集めても、逝くときは何にも持って行けないよ」と人々に伝えたかったのである。
 だが、億万長者の葬式を見送ろうと集まった人々は、手の出た棺桶を見て何と言ったか:−
 「あれほどかき集めてもまだ足りなくて、もっと欲しいと手を出している」。
 情けない話である。「逝(い)くときはカラ手だよ。二度と私のような悲しい生きざまをしないでくれよ」と長者は叫びたかったのだが、長者の生涯の生きざまが生きざまだから、人々はそうは見てくれなかったのである。大切なのは財産ではなくて生きざまそのものなのだが、私たちは財産を追うことに眼がくらんで、生きざまを忘れているのである。
 金は無いより有る方がよい。物が無いより恵まれた方がいい。だが、それがすべてだと思いそれに酔いしれた人生で終わってはならない。それは余りにも己を粗雑にした生き方でしかないからである。
 「もし人、己を愛すべきものと知らば、慎みて己を護るべし、心ある者は、三時(朝昼夜)の一において、厳しく己を省みるべし」と言う教えがある。人が本当に自分を愛する気持ちがあるならば、厳しい気持ちで己を見つめ、私は本当に自分を愛する気持ちを充実させるために、人を愛し人に喜びを与える事に心を打ち込んで生活をしたであろうか、と反省してみるべきである。
 自己を愛する心の強い者ほど、他を愛する心を強くもって生きるべきである。その心の強さが日常生活において行動に現れる。これが自己を護る徳と言うものである。 
 現在、バブル経済破綻以降、財政再建が優先課題と叫ばれてはいるが、一向に対策案が見えてこない、結局は消費税によるその場しのぎになるであろう。
 金、金、金と金を追い回し、金がすべてと決め込んでいる連中には庶民の苦しみ、迷惑などわかっていないし分かろうともしないから、金田一春彦さんではないが、「文化の花が咲き、芸術が発展した時の政治は悪政である。藤原道長の時代しかり、五代将軍綱吉の時代しかり、そうして平成の消費税しかり」と言われることにもなるのである。庶民に対して気配りのないことでは良い政治は出来るものではない。と言って、いくら怒って息巻いてみても、決定した世の中で生きて行かねばならないのだから、何とかこの時の流れの中で心強く喜んで生きて行くには、どう考え、どう受け取るべきかを、私が自分なりに考えた結論はこうである。
 この不況の時代を心安らかに生きて行くためには、まず、使い捨ての生活を正すことである。現代の日本人はあまりにも恵まれ過ぎて物の尊さを感じる心も、物を活かす考えも、感謝する心も失っているのではないだろうか。衣類にしても、家具類にしてもまだまだ使用出来るものを、無造作に使い捨てる。食物などに至っては贅沢(ぜいたく)この上ない有り様である。
 仏法ではこの食物に対する道は厳しい。
 「己が徳行の全欠を計って供に応ず」とある。これは、この食物をいただく自分は、どれだけお役に立つようなことをして来たか、果してこの食物を受けるに値する資格があるだろうかとよく反省してみる、と言うことである。このように仏教の食事観は徹頭徹尾、物の命を大切にするところから出発している。いま一つは、
 「心を防ぎ過ちを離るるは貪等を宗とす」と教えている。私たちは食事に際し、つい選り好みし、おいしいものはもっと欲しいと貪りの心を起こし、おいしくないものには愚痴をこぼし、腹を立てたりする。この貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒で、ついに地獄・餓鬼・畜生の三悪道に陥ってしまうものであることを反省すると言うことである。
 従って、不況だ悪政だと腹を立てたり憎んだりして、地獄におちるより、地獄におちるのは相手にまかせて、これは天が我々に対して慈悲の警告を与えて下さったと受け取るべきだと思う。
 現代の人々はあまりにも奢(おご)り高ぶって、徳を減らしているのではないだろうか。国民の一人一人が徳を減らすような互いに我(わ)が儘(まま)な生活をしたその結果の二十年三十年後の日本はどうなるだろう。日本沈没の映画ではないが、日本人の運命は徳を失って運命的に沈没する人がぞくぞくと出て来るだろう。我々の可愛い子孫にそんな苦しみを与えるような生活をしているのが現状である。
 だから、私は今の不況を天の警告と受け取り、物を活かす生活に切り換えれば、そこにおのずから感謝の心が芽生えて来る、従って物を活かせば徳を減らさず、感謝の心が深くなれば、人間的に成長もするから運命も良くなって行く事は明らかであると宣言したい。
 贅沢をしている時は、愚痴や不足が多く、心のストレスで血行不良も伴い、おいしい物を食べながら不健康であった者が、感謝の心で物の命を喜んでいただくようになると、何を食べてもおいしく、心のストレスがなければ血液等の循環も正常になるから、気を使わなくても健康は保てるのである。
 粗雑な感覚から目覚めて、物を活かす心を育て感謝の出来る人間性に目覚めた時、物や金にプラスする豊かな心で徳を育てる必要性が分かって来るのである。

合掌

宝塔第323号(平成18年12月1日発行)