「宝塔」第334号
ホーム 上へ 交通のご案内 お問い合わせ先 大乗教の沿革 杉山辰子教祖 教祖聖地臥龍山 総本山散策 大乗教インド別院 Buddhist Temple 書籍のご案内 百周年記念事業 大乗教青年部 国際ボランティア会 モバイル 行事案内 リンク 被災地支援 霊山安立廟

 

 

人の幸せを祈る人

 こんな心の女性がいました。つい最近この方は、押入れから布団を出そうとしたところ、腰に負担がかかり、ギクッと音がしたかと思うと、もう腰が立たなくなってしまいました。その時、嫁さんを大きな声で呼ぶと、駆けつけた嫁さんこれは大変と、直ぐにこの方を抱えて病院へ行きました。医者の判断を仰ぐと即入院、今まで医者にはかかったことのないこの方には、とても不安なことでした。治療後病院のベッドで横にはなるのですが、心が落ち着きません。心の中では、これくらいのことであるから早く退院できるだろうという気持ちと、もしかするともうこのまま死ぬまでこんな状態なのかと、不安でたまらなかった様です。この方は退院後のある日、自分が無事退院できたのはひとえに仏様の御守護のお蔭であると、こんな話をされました。

 「四人部屋の病室に寝かされると、痛みが強いのでどうしても嫌な気分を押さえることが出来ず、イライラしておりました。しばらく経つと痛みも和らぎ、心に余裕も出てまいりました。そして、周りを眺めてみると、私以外に三人の方がベッドに寝ていることに気づきました。新入りが挨拶もなしでは申し訳ないと思い、一人一人に今日はこれこれの理由で入院することになりました、お願いしますと声をかけますと、私の隣りにいた同年輩の女性が、
 『あなたは幸せ者ですね。優しい嫁さんがついて来て世話をして下さるんですから。私は一人暮らしで誰も身内もいないので、寂しくてしかたがありません。一ヵ月程前に、道路を歩いていると、道の真ん中に溝のあることに気づかず、その溝に足をとられてしまい、前に倒れたのか横に倒れたのか、足の骨を折ってしまいました。そのまま動くことが出来なくなったので、近くを通り掛かった人の助けをかりてこの病院に来たのです。治るのがいつになるのかとても心配なんです』
 とこんな事を言われました。
 その時、私はまだ幸せなんだ。ギックリ腰だとはいえ嫁が優しく看病してくれている。世の中には身寄りのない寂しい人がたくさんいるんだと、今の自分を感謝せずにはいられなくなり、思わず、私のベッドの横でお茶を入れている嫁に向かって、心から合掌させて頂きました。すると今度は、斜めの方にみえる私より若い奥さんが、
 『私は欲が深いからこんな事になったんですよ。私は買い物好きで、いつも自分の家の近くのスーパーへ行きます。その日は、そのスーパーの大売出しで、普段より安い物ばかりの広告を見て、早速、自転車に乗り出掛けました。途中、雨が降り出したので、慌ててペダルを回しました。すると急に後ろからクラクションが鳴りましたその時、何が起こったのかとびっくりしてしまい、ハンドルの操作を誤って、自転車と一緒に倒れてしまいました。柔道の受け身でも知っておればよいのですが、まともに手を着いてしまったのでこんな姿になってしまいました。でも、後ろから来た車に跳ねられ死んでしまえばそれでおしまいですが、これだけで済んだことは有り難いと思っています。けれど欲をかくことはいけません。大安売りの品物の値より、こっちの方が高くなってしまいました。こんな事があると家族に対して反省の気持ちが出てくるんです。とにかく、家計が大切だからと思って安い物、安い物と探しますが、お金の事が先に立って家族の者にはどんな食事がよいのかを考えてあげることがなかったような気がします。こうして病院で栄養を考えた食事を頂いてこんなことを感じます。ケガをすることも、自分を反省するには良いかも知れません』
 と、とても素晴らしい信仰的なお話しをして下さいました。私もこのギックリ腰だけで、今まで体を悪くしたことはありませんでしたが、こうやって病気をしてみると、生まれてから今日まで働けるための充分な五体を持つことが出来たのが不思議でなりませんでした。そして、その時、動かすことの出来る手で頭を撫で、顔を撫で、両方の腕を撫で、手の届かぬ足は手を合わせ拝み、その丈夫であることを感謝させて頂きました。すると、何かそれそれが返事をしてくれている様な感じがして、嬉しい気持ちで心が一杯になりました。
 前のベットには、若い女性が両足に包帯をしていました。はじめの挨拶はされましたが、どうされたのかは、最後まで分からずじまいでした。この女性を見ていると何か訳でもあるのでしょうか、いつも沈んだ顔をされていました。綺麗な顔の人でしたから恋の悩みでもあったのだと思います。その女性を見ていると私の孫娘のような気がして、その女性の心に光がさします様にと祈らせて頂きました。
 私は入院してから寝つくのに時間がかかり困りました。最後は自分の腰をさすりながら、どうか早く、この腰の痛みが取れ退院出来ます様に、また、孫を連れて公園を散歩出来ます様に、仏様お願いしますと祈りつつ目を閉じておりましたが、どうしても、本当に治るだろうか、何年もかかるんじゃないかと思いますと、直ぐ目が開いて寝つけないでいたのです。そんな中で先生より聞いた言葉を思い出しました。
 ◎他人の幸福のために、真心を込め祈ることのできる人は仏の守護を受ける。
 私以上に苦しんでいる人たちが、周りにもたくさんみえることを忘れていた自分に気づき、もう一度思い出して、寝るときには、隣のベッドの誰々さんの足が治りますように、女の子の心の苦しみが無くなりますように、この病院の患者さんのそれぞれの病気が治りますようにと、心から祈らせて頂きました。すると不思議な事でありますが、夜はすぐ寝つけるようになり、悩みもなくなってまいりました。そうこうしている内に、退院する運びとなり、今日に至りましたが、入院中、苦しみだらけでは救われませんが、何か楽しい思いも感じることが出来てとても幸せな気持ちでいます。これも仏様の御守護を頂いたお蔭によって、大きな救いがあったのだと思います。仏さまに感謝いたします。ありがとうございました」。

 人生を苦しみ無しに生きることは出来ません。四苦八苦の苦しみは、必ずついて回るものです。しかし、この苦しみを解決の出来ない苦しみと受け取り、喜びの無い一生を過ごすか、何とかこの苦しみを喜びと変えて、楽しい人生を送るか。ここに、仏法というものの必要性を感じます。
 「仏心とは大慈悲心なり」という言葉があるように、仏の御心は、衆生の苦しみを取り除いてやりたい心で満たされています。ところが、目の前にそんな尊い方がおりながら、これを信じようとしないのが凡夫でありましょう。人として生まれた以上、単独で生きていくことは不可能です。人と人との間に生かされていることになります。
 この生かされる事実をよく見極めることによって、今自分がどういう心をもって世を渡っていかなければならないかが分かってきます。この分かったところというのが、すべての人にある共通の意識なのです。
 さあ考えてみて下さい。何でしょうか?
 前述の女性は、自分の利益を求めるような心を持った時、寝ることにも儘(まま)ならなかったようです。ところが、次にどんな心を持ったか、自分以外の人の幸せを祈ったのです。するとどうでしょうか。求めて得られなかったものが、求めずして得ることが出来たようです。
 仏さまの心とは、この世のあらゆる知識を持ってしても知ることは出来ないと言われます 広大な仏さまの心も、この女性のような思いの転換から始まったのではないでしょうか。お互いが仏の御心に近づくように精進を続けていきたいと思います。

 合掌

宝塔第334号(平成19年11月1日発行)