「宝塔」第347号
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本物を見つけること 

 今年も残すところあと一ヵ月となりました。師走と言われるとおり、街中慌(あわ)ただしさをましています。毎年年末になると一年を振り返るのですが、今年も目まぐるしく変化した年ではないでしょうか。新聞、テレビ、インターネットなど、即座に情報が入手出来、今どうなっているのか知ることが出来ますが、この先どうなつていくか予測もつかない事が多くあると思います。
 現在は、お釈迦様の予言では末法の時代に入っていると言われています。この時代に正しい考えを持った人が少なく、世が乱れ、思いもつかない事が起こってくるのは、当然なのでありましょうか。幸か不幸か日本はまだ裕福な国ですが、貧困の時代にはなかった各種の犯罪が多発し、精神的な悩みを持つ人も増えてきました。世の中の激しい移り変わりの中、今以上に心の支えを必要としている時期はありません。こういう時こそ正しい真理に出会い、一人でも多くの方に心の安らぎを得て、楽しい日暮らしをして頂きたいものです。

 ☆千円札と五百円硬貨
 
 千円札と五百円硬貨、どちらに大きな価値を置きますか。ほとんどの人は価格の高いほど価値があると考えますから千円札を取るでしょう。お金の値打ちを知らない小さな子供は、遊び道具として五百円硬貨を取るかも知れません。物を選ぶときは本人の価値観が大きく関わってくるものです。そして、その根底にあるものは欲望であります。この欲望も、限りがありませんから、あまりにもそれが強過ぎたり、方向を見失うと良い結果を導きません。
 景気の良い時はお金がだぶついていて、こんな時にはお金に対する価値もマヒしてしまうようです。高額なものこそよいものであり、お金のかからないものには本物はないとしてしまう。また、すべてはお金を出せば解決すると考えるのであれば、これこそ異常でありましょう。いつまでも道理より外れた価値観であれば、こころからの幸せを感じることはできないのはもちろん、いつまで経っても本物に出会えないのでありましょう。
 そこで、正しいものの見方が必要となってきます。それには、自分だけの我欲でものを考えるのではなく、絶えず良い教え、良い師、良い友に出会う必要があります。 
 しかし、それもなかなか本物に出会うことは難しいことです。どういう心掛けが必要なのでしょうか。
 お釈迦様のお弟子についてのこんな話があります。

 ☆二大弟子〔舎利弗と目蓮〕
 
 ラージャグリハに二人のバラモン修行者がいました。それは一人は舎利弗、もう一人は目蓮です。二人とも大の親友であり、サンジャという師に就いて勉強していました。賢明である二人は、すぐに師の説を理解し、師を越えるほどの力を得ましたが、サンジャの説だけでは満足出来ないところがあり、もし自分たちの疑問に答えるだけの師が見つかったならば、その人に就いて修行しようと誓い合いました。
 ある日、舎利弗は、お釈迦様が最初に説法し弟子にされた五比丘の一人アッサジに出会います。彼は乞食(こつじき)の途中でした。彼は鉄鉢を手に持ち村々で食を乞うと、村人たちは恭(うやうや)しく彼にご祝儀をします。それを見た舎利弗は問いかけます。
 「沙門(仏弟子)よ、あなたの清らかな態度に私は感動せずにはいられません。どうか教えて下さい。あなたの師は誰でありますか。また、その師はあなたに何を教えておられるのでしょうか」
  「バラモンよ、私が師としているのは釈尊であられます」
 続けてアッサジは自分に授けられている教えについて語ります。
  「私たちの師である釈尊はものごとすべて因縁より起こると説きます」
 これを聞いて舎利弗は、今までの疑問が一度にとれて直ぐに目蓮のところへ行きアッサジのことを話します。すると目蓮もその教えに共感し、二人は揃って弟子を連れ竹林精舎へと向かい、お釈迦様の弟子となりました。
 その後、舎利弗・目蓮が釈迦十大弟子の二人となったことは周知するところです。
 彼らは本物を見つけることが出来ました。どこまでも真理を求め、挫(くじ)けることなく努力した報いが本物に出会うことであったのです。
 何事も精進のないものには良い結果というものはありません。

 合掌の心
 
 真心のこもった合掌は仏教徒の基本的な修行の一つです。朝・晩の仏前での合掌、三度の食事前後の合掌、 その内容は、
 
  ◎朝の仏前
 一、今日も命を頂いたことを仏さま・御先祖に感謝する  こと
 一、今日も社会のお役に立てるよう誓うこと
 一、家族はもちろん生きとし生けるものの成仏(幸せ) を願うこと 
 
 ◎三度の食事
 一、今日ここに食事を頂くことは、仏(大自然)の恵み であると感謝すること。(野菜にしろ肉にしろ、すべてその命を犠牲にしてまでも、私たち人間を養って下さっている)
 一、米・野菜・肉、おかずすべてに携(たずさ)わった方々に感謝 すること
 一、食事を作って下さった方に感謝すること
 
  ◎晩の仏前
 一、今日の無事を仏さま・御先祖に感謝すること
 一、今日関わった人々(善人・悪人含め)感謝すること
 一、今日の過(あやま)ちの懺悔(さんげ;身・口・意で犯した罪を今日中 に反省し、二度と繰り返さないように誓う)
  これを真心から合掌する習慣を身に付けようとすると、今までそんな事を実践したことのない人には、その姿が身に付くまで時間がかかります。手を合わせることが恥ずかしいという気持ち、前に掲げたことを言葉として理解できても、心身共に理解することが出来ません。
 そんな時の合掌の姿とは真心からではありませんからどうしても不自然となります。また、本人もそれが分かりますから本物の合掌ではないのです。しかし、長年繰り返し、出来ないながら一生懸命にその姿をつくり、心を込めていくと、その合掌の姿に光が加わり、誰が見ても素晴らしく感じるようになります。
 また、素晴らしい合掌の出来るようになった人は、真心からの合掌か、中途半端な形だけの合掌であるかが他人の合掌の姿を見て分かるようになるものです。これは仕事でもスポーツでもしかり、すべてのものごとに通じるところです。
 自ら一生懸命に行うところには、必ず自分が今まで持ち合わせていなかった尊い眼が開かれるのであり、舎利弗・目蓮もその通り、自分たちの置かれた状況の中、一つ一つの出会い、仕事(師に仕えること)に対して、無駄なことは一つも無いと飽くまでも本物を追求しようとする真摯(しんし)な心でやり抜いた、そこに、本物を見出す大きな眼が養われたのであります。そして、まさにアッサジの姿が修行者としての本物であり、釈尊の教えが本物であったわけです。
 今日、テレビ・雑誌・インターネット、目新しい情報が多く流れてきます。しかし、安易な気持ちで情報を選択することだけは慎みたいものです。
 昔より、楽して儲けることには必ず裏がありますし、努力のない人には成功はありません。
 その事をよく踏まえ、目指す本物に出会い、そして、目指す本物に成っていきたいものであります。 
                            合 掌

 まじめに努力して生きれば楽があり、 気儘(きまま)に生きるなら憂いが多い。                    
                  出曜経(しゅつようきょう)

宝塔第347号(平成20年12月1日発行)