「宝塔」第364号
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役立って生きよう  

 人間としてこの世に生れた限り、人の為に多少なりとも役立って生きねばならないと教えられている。欲に迷いの多い我々には、最も大切な事である。 
 中国の故事に「老馬智(ろうばち)」という言葉がある。これは昔桓公(かんこう)の大軍が敵地に攻め入って山中で道に迷い帰ることが出来なくなった時、宰相(さいしょう)の管仲(かんちゅう)が申し出た。「道を踏み迷った時には、年老いた馬を解き放てば、本能的感覚で、必ず道を探し当てるものです」と言った。 
 これを聞いた桓公は、数ある馬のうちから、一番の老馬を選び出して、馬具一切を取り去って、解き放したところ、老馬は辺りを見回しているうち、方向が定まったのか、ようやく歩み出したので、これに従って大軍は後に続き、老馬の智恵によって事なきを得たという。 
 さて、この老馬であるが、永い年月を経って得たところの貴重な体験をかわれて、老いの目に涙して喜んだであろうと言われている。 
 この故事にもある様に、人間もまた年年歳歳老いて行く、従って経験も豊かなものになる。何事も経験をしなくては解らない。経験はその人の宝と言われるように、学問や生まれながらの智恵だけでは知ることの出来ないものであると教えられる。 
 人は皆、それぞれの縁によって経験の道をたどりながら、オトナになって行くのだが、さてその尊い経験を己の為に、人の幸福の為に生かすことが出来るかが問題である。 
 「無縁の慈悲」という言葉があると教えられる。意味は、執着のない慈悲と言うことである。人の為に親切を施しても、役立つ事をしても、或いは食物を施しても、そのお返しを求めない心のことであって、これは衆生を済度する菩薩の心でもある。 
 願わくは、老人になっても豊かな経験を「無縁の慈悲」で大いに磨いてほしいものである。その為にも必ず年老いて行く若者は勿論、老人の方も、ゲートボールや、温泉旅行も大いに宜しいが、その時間を少々割かれて、人間いかに生きるべきかを説かれた教えに耳を傾けてほしいものである。そうすれば迷いの欲にたぼけたままの人生を終わらず、老いた馬が役立った様に、豊かな経験を生かした”老人智”が働いて、自然と役立って生きる事が出来るようになる。いたずらに年取るほど無意味なことはないのだから。 
 人間界に生れ育った喜びを大いに感謝して、人から好かれ、信頼される人としての道を皆さんと共に仲良く歩いて行きたい事を望むものである。 
 人は常に善悪の道を振り子の様に彷徨(さまよ)って、徒(いたず)らに時を過ごして行く、これに気付かぬようでは人間として、この世に生存する甲斐がない。植物にしても、自らに与えられた自然の使命を最善に果たしている。なのに万物の霊長と言われている人間が、ただ生まれて、食べて、働いて、泣いて、笑って、子孫を得て、年老いて、死んで行くのみならば、動植物となんら変わりがないではないか。人間は植物でもなければ、畜生でもない、人間である。生きることのみで草木や動物と同等ではならないのである。人間特有の生存目的がある。それが何であるかを知った時に、人としての進むべき道が開けてくるものである。 
 仏説『無財の七施』の中に言辞施(ごんじせ)の教えがある。お金や物品はなくても言葉一つでも徳が積めるということであって、感情の動物である人間の生活には最も大切なことであり、言葉一つの中にも役立って徳が積めたり、罪を作ったりしていることにも気付かねばならない。 
 だが我々はついその感情のおもむくままに、それを露骨に言葉にしてしまう愚かさで思わぬ恨み憎しみの罪を作ってしまう場合が多いようである。 
 新聞の「声の欄」に「看護師さんの言葉がきつく疲れる母」と言う見出しのものが出ていた。記事によれば、大きな病院の眼科へ通っている投稿者の母は、検眼のある日はひどく疲れて帰り、食事もとれないくらいであるとのこと。以前、医院へ行っていた時はそうでもなかったのにと思い聞いてみると、原因は看護師さんにあることが分かった。検眼の際に「まばたきしないで、動くと何度でもやり直しさせますよ」と、きつい言葉で言われるので緊張してしまうのか、上手くいかず、その都度叱られるという。 
 投稿者は自分の母が不器用のため仕方がないと思っていたが、同病院で「私も叱られて、叱られて」と言うのを聞いて看護師さんの対応のまずさを知った。そして「看護師さんにお願いです、患者を叱らないで、優しい言葉と笑顔で接してほしい、それがプロではないでしょうか」と訴えておられた。 
 この記事を読まれた人達の多くはうなづかれたことだろうと思う。病気になって病院へ行く人で楽しく喜び勇んで行く人はいないだろう。全ての人が不安におののき藁(わら)をも掴む思いではないだろうか。いわゆる弱者である。その弱者を労り、弱者の味方になって、心の動揺を鎮め安心して医師の言葉に従うように導いて行かねばならない立場にある者のなす言葉や態度ではない。これではこの人は自分の職場に於いて毎日多くの人々に恐怖を与え多くの人の悪念を受けて生きて行かねばならない。しかも『習慣は性格に変わる』と言って、その邪険な言動が性格と成ることに気付いていないだろう。 
 看護師さんの仕事は確かに過労である。私の所へもこの仕事に打ち込んでいる娘さんがよく来られる。私はよく話をする。「人間は働いて生きて行く。各自がその職場において時間をつぶし給料をもらって生活するだけでは無駄な人生で終わる。まして人に嫌われる働きではそれこそ地獄行きは間違いない。職場は各自の人間性を磨く所であるから、仕事を事務的にするだけではなく、思いやりを込めることを忘れてはならない」と。 
 いま一つは先に述べた邪険な看護師さんのいる病院側の指導のまずさにも原因があるとも言えるだろう。何故ならば、私もよく各方面の病院へ見舞いに行くことがある。そんな時いつも感じるのは、その病院のムードや働く人々の態度・対応である。病院によっては素晴らしい明るさで、看護師さんも非常にもの柔らかく、患者さんに接する態度や言葉も、何かほのぼのとしたものを感じる病院のあることも事実である。 
 こうしてみると、看護師さんだけではなく、どの職場においても、人間性が豊かであるか、貧しいかによるものであると言えるのではなかろうかと思われる。 
 ある老婆がこんなことを言われた。 
 「私の家には息子の嫁と孫の嫁がいて、二人とも私の面倒をよく見てくれます。夜も寝ようとするとすぐ布団を敷いてくれますし、朝起きるとどんなに忙しい時でも飛んで来て布団をたたんでくれます。何から何まで本当によくしてくれますが、二人とも言葉が荒くて、聞くたびに冷や冷やします。布団は一枚でもいい。自分で敷いて自分でたたんでもいい。他の事も自分でやってもいいから、優しい言葉が欲しいと思います。嫁も孫嫁も気持ちは優しいのですがねえ」と、しみじみ言っておられたことを思い出しましたが、その老婆の気持ちが分かるような気がするのは私一人ではないだろう。 
 それほど人間生活においての言葉と言うものは大きな位置をしめていることも過言ではない。言葉一つで人を活かすことも出来れば、殺すことも出来るとは、昔から言われていることである。まさに間違いはない。 
 心にもない歯の浮くようなお世辞ではなくて、心のこもった思いやりの充実した言葉で、互いに励まし合い、助け合い、労(いた)わり合って仲良く、人間である事を生かして周囲の人々の為に役立って生きることの出来る人生を共に生きて行こうではありませんか。

   たのむばかりが信仰ではない。 
   たのむ前にやる事がある、それが信仰だ。


                            合 掌

宝塔第364号(平成22年5月1日発行)